ホーム > 活動報告 > 交流広場(アーカイブ)

交流広場(アーカイブ)

東京皆実有朋会の旧ホームページに、会員相互の親睦を図る目的で掲示板形式の「交流広場」というコーナーがありました。会員の皆様から、そのときどきの出来事や心情など多くの投稿をお寄せいただきました。それらにはお1人おひとりの想いが込められており、今改めて読み返しても心に響くものがあります。現在のホームページに「交流広場」はありませんが、アーカイブとして引き続き閲覧いただけるよう本ページをご用意しました。かつて投稿いただいた皆様、ありがとうございました。

ありがとう2号館

ありがとう2号館

皆実高校2号館(昭和33年2月22日竣工/鉄筋3階建て=普通教室15・特別室3)が耐震性の問題で建て替えるため、平成21年10月20日から工事中です。

解体工事に先立つ18日に同館が開放されたのを受け、訪問した井上学さん(皆実41期)からその際撮影した “我が学び舎” の写真を提供して頂きました。

校舎、教室、廊下のたたずまいを見ていると、当時の懐かしい思い出が甦り、無くなることへの寂しさを禁じえませんが、新校舎(平成22年10月竣工予定/鉄筋4階建て)の完成に伴う在校生の喜びの顔を楽しみにしたいと思います。
 

  • 皆が巣立った学び舎

  • 友と語り合った廊下

  • 懐かしい教室

2010年3月8日
HP編集長 浜崎克海(皆実12期)

 

64年目の広島平和祈念式典に参列して

2009年8月6日8時15分黙祷 ―― 毎年東京の我が家で西に向かい1人で黙祷しているのに、今日は息子達2人と3人で式典に参加、並んで黙祷している。

少し薄曇りの空の下、広島市長、県知事、総理大臣、来賓……と次々、平和宣言、核廃絶の誓い、白い鳩が飛び、例年の型どおりの進行であった。会場を埋め尽くした人、人…… 立錐の余地のない会場で80歳の私は杖に縋り、立ち尽くしていた。

「1度8月6日に広島に行きたい」と言い出したのは息子達であった。

あの日、ドームの裏の細工町に住んでいた私は、県女の4年生で東洋工業に動員されていた。作業場に着いた途端、西側の窓硝子に閃光が…… 一瞬にして両親と弟を失った。父と弟は行方不明、母は台所で骨になっていた。39歳と35歳の両親、弟は13歳であった。

6日の夕方、東洋工業→府中→入市→御幸橋→鷹野橋→紙屋町→相生橋と電車通りを伝い相生橋の袂で見た光景 ―― 細工町に火の絨毯がまだ熾りのように燃え広がり「母は生きてはいない……」と。その光景は64年間、瞼の奥に焼き付いて、何年経っても父や弟を捜してやれなかった無念さと重なり、私は広島に行くのが苦しかった。

64年後の細工町は中区大手町と変わり、島病院とお寺が2軒あるだけの見知らぬ町となり、当時の道筋だけを残し、我が家は駐車場になっていた。しかし、目をつむると64年前の細工町が蘇る。相生橋の袂に細工町の家並がプレートに刻んであり、「岸本純太郎」と父の名があった。

1人生き延びた私の64年は2人の息子に恵まれて、今ここに3人でお参り出来たことで、決して不幸ではなかったと思う。「あやまちをくりかえすな」「人間を返せ」の誓いが風化しないよう、この平和公園に祀られた人々の冥福を祈り続けよう。
 

有朋42期 西組の同級生と再会

 
8月6日の平和祈念式典に参列のため帰広した私を迎えて、42期の西組の級友が集まってくれた。宇品港を見下ろすグランドプリンスホテルの20階で海を見ながら懐かしい友と夕食をともにした。

あの日4年生であった私達は東洋工業に動員されていた。5名が “8月6日” に亡くなり、64年の間に12名の友が逝った。集まってくれた8名は超元気な80歳である。2名は卒業以来であったが、女学生の時の顔に少し皺が増えただけで、言葉はいらなかった。

握手した手に62年のご無沙汰は消え去り「これからの短い人生、仲良くしてください」、ひとりぽっちになった私をずっと案じてくれた級友達は「岸モン(旧姓岸本)今度は気候の良いときに来んさい」。

瀬戸内の美味しい料理をご馳走になりながら話は尽きず、最高に楽しい幸せな一夕だった。

2009年9月17日
河野美智子(有朋42期)

 

同期会(平成21年8月13日)を終えて思うこと

今回の同期会のきっかけは、皆実高校サッカー部の全国優勝。選手の中に誰1人面識のある人はいないけど、同じ高校を母校に持つということだけで、応援したくなるこの不思議な感情、いや、素直な感情というべきか。

母校が、全国制覇を果たし、日本の頂点に立ったということに対する喜び、誇り、感動…… この瞬間にTVの前とはいえ、自分が生きてる間に立ち会うことができたということは奇跡的ともいえる。この喜びを、誇りを、感動をもっと多くの皆実高校OB・OGと分かちあいたいと思った。

母校を愛する気持ち、故郷を愛する気持ち、祖国を愛する気持ち、これは説明することのできない普遍的なことではないかと思う。あらためて、全国制覇を果たした選手たち・監督・その関係者の方々に感謝したい。

2009年9月17日
藤原毅之(皆実25期)

 

カナダからの千羽鶴

カナダの片田舎サスカチュアン州ムース・ジャー市の学校から千羽鶴を託され、広島の「原爆の子の像」に奉納した経緯を報告させて頂きます。

私は昨年5月に一大決心をし、43年間サラリーマン生活をすごした日本を離れ、1人息子の住むカナダのサスカチュアン州レジャイナ市(カナダ中央平原にある冬場はマイナス40度にもなる極寒の地です)に永住目的で渡り、現在は住居を取得し、永住ビザ申請、英語の特訓、趣味のゴルフとダンスのレッスンなど、地域との交流、孫の子守と結構多忙な日々を送っています。

今年に入り突然、現地の学校『コーナストーンクリスチャンスクール』(レジャイナ市から西に70kmのムース・ジャー市にある幼稚園から高校までの一貫教育をする私立学校)の教頭先生から、どういう経路からか私が広島出身で、しかも「原爆の子の像のモデル」サダコと同期生に当たることを知られ、州大会に出場予定の劇「千羽鶴」のリハーサルに参加してほしいとのお誘いを受けました。

3月29日、同校に出向き、リハーサルとその後の意見交換会に参加しましたが、劇は本格的で、出演の生徒達、指導の先生達の熱心さに感心しました。それ以上に、このカナダの片田舎の学校の生徒達が広島の原爆に関心を持ち、世界平和の祈りの一環として劇「千羽鶴」を取り上げ、一生懸命に演じている姿に、生まれて初めてと言えるほどの強い感銘を受けました。

その席上で彼らの熱意に応えるため、生徒手作りの千羽鶴を、5月に家内の墓参りのための帰国の際に広島の「原爆の子の像」へ奉納することを約束しました。

ところが奉納の手続きが解らず皆実12期の仲間に働きかけたところ、広島の皆実有朋会事務局、広島在住の同窓生と協力の輪が広がり、5月18日に「広島市市民局国際平和推進部平和推進課」主事立ち会いのもとで「原爆の子の像」に奉納する手筈を整えることができました。

日本への帰国は新型インフルエンザの問題で無事入国出来るかヒヤヒヤする場面もありましたが、5月18日当日、広島の同期3名も駆けつけてくれ、無事「原爆の子の像」に託された千羽鶴を奉納し、約束を果たすことができました。

ご協力頂いた皆様、本当にありがとうございます。同窓生というものはいいものだとツクヅク思いました。

なお、「千羽鶴」は5月8日の州大会で1位獲得は逃したものの、主演女優賞、男優賞、最優秀製作賞、技術賞の各賞を獲得しました。生徒達が、広島出身の私の存在で物語に現実味を覚えたと聞き、この生徒達が大きく育って、戦争や人種差別のない平和な世界を築いてくれることを心から祈っています。

2009年7月15日
小野孝義(皆実12期)

 

東京地区14期同期会を開催しました

去る4月19日(日)12時から東京および近郊に在住の皆実14期生同期会を神田ステーションホテル内のレストランで開催しました。

14期生の同期会は、これまでは全て広島市またはその近郊で開催されていました。東京およびその近郊の同期生が集まったのは、今回が初めてで、実に卒業以来46年ぶりとなります。

当日は16名が参加しましたが、開始直後は、名前と顔が在校時と繋がらず、まして在校時面識のなかった人は、正直なところ初対面と一緒で戸惑う場面もありました。

しかし、数分でその心配は外れました。おいしいフレンチをいただきながらワインが進むにつれ、会話の中で在校時の思い出が蘇ってきて、昔の顔と今の顔が繋がり、話がどんどん弾んで行きました。

予定の時間になっても話が止まらず、お店の好意で大幅な時間延長をしていただきましたが、それでも話は尽きませんでした。

結局、ほとんどの人は場所を変えようと2次会に繰り出し、散開したのは5時を回っていたと思います。

今回の同期会は、同期生の大半がリタイアまたはその直前の年齢となった現在、たまには再会して旧交を温めることも、これからの生活をエンジョイするために大切だと考え企画しました。今後は、原則的に2~3年毎に開催できたらと思っています。

2009年6月15日
上道喜裕(皆実14期)

 

第16回東京皆実有朋会の集いに広島皆実有朋会長和田さんを迎えて

10月4日東京皆実有朋会に今年も和田さんが上京された。

41、42期の私達は広島で和田さんが会長に選ばれたことを誇りに思っています。

和田さんは今も同期の要であり、年々高齢化が進み、有朋の出席が減少していますが、私達同期のものは和田さんを迎えての1年に1度の集まりを楽しみにしています。今年も2次会では広島の話に花が咲き、時が経つのを忘れました。

1929年生まれの私達は、おん年80歳になんなんとしていますが、今だに美しい方もいて華やいでいます。

「来年元気で会いましょう」と固い握手を交わして、またの逢う瀬を誓います。

パソコンを少し扱える私は、HP 委員の端くれに加えて貰っています。集いの会の出席も年々減少しています。この記事が目にとまりましたら、有朋の方はもとより、若い皆実の方々も是非「交流広場」に返信、投稿してください。HPの有効な活動に尽力いただきますようお願い致します。

最後にこの会の末永い発展を祈ってやみません。

2008年11月30日
河野美智子(有朋42期)

 

東京皆実12期、長野で秋の同期会を開きました。

平成5年、東京皆実有朋会設立準備のため各期の有志が集まりました。それを契機に今まで顔を合わせることも少なかった東京在住の皆実12期生が集まるようになりました。

ホームルームも卒業後の経歴も違う者同士、初めは多少の遠慮がありましたが、そこは同期生、今では会えばすぐに数十年の時間を飛び越え、高校時代に戻り、何でも言い合える同期会になりました。

今回は11月6~7日、秋の長野を楽しむ1泊旅行をしました。東京地区には39名の同期生がいますが、平日のため結局12名の参加になりました。

自称善男善女が多いせいか両日とも天気にも恵まれ、善光寺→金原温泉→海野宿→軽井沢の工程は和気藹々の内に楽しく無事終了しました。

宿は大田区立の「休養村とうぶ」。本館は近代的な建物ですが、今回は郷愁ある古い民家を移築した別館に宿泊しました。温泉で暖房された座敷で、夜遅くまで雑談、次回は12月に新橋の広島風お好み焼き屋で同期会開催まで決まってしまいました。

2日目の朝、高台にある宿からは雪を頂いた北アルプスを望むことが出来ました。日頃、町並みしか見ていない目には清々しい風景でした。

2008年11月30日
浜崎克海(皆実12期)

 

喜寿の祝賀会を開きました。

有朋44期生は終戦の年、2年生でした。

原爆当日は、市郊外に学徒動員中で難を逃れました。今年、喜寿を迎えていますが、これまで1年半に1度、国内各所で同期会を催し、お互いに元気に生きていることを喜び合ってきました。

今年3月18日、喜寿の祝賀会と画業60年を迎えられた新制作会員の名柄禎子さんを祝う会が広島であり、同期生50名が参加しました。6日間に及ぶ県立美術館での個展と共に盛会でした。

2008年5月1日
小島和子(有朋44期)

 

皆実21期卒業生の皆様

私は、皆実21期の山口勝です。つい懐かしくなってメールを書くことにしました。高校を卒業して約35年。早いものです。高校時代ブラスバンドに所属していましたが、3年生になって退部しました。あまり真面目ではなかったみたいです!? 卒業時は、3年5Hで寺田先生が担任でした。東京の大学を卒業後、品川に本社のある電機メーカーに入社し、9回転勤をしました。現在は、横浜在住でガーデニングに明け暮れる毎日を送っています。女房も皆実高校卒の同級生です。皆実有朋会にはなかなか出席できないですが、1度は出席したいと思っています。

2008年4月28日
山口勝(皆実21期)

 

有朋会45期追悼の会編「平和への祈り」読後感

有朋会45期追悼の会編集の「平和への祈り」が、同期の浜崎君から送られてきました。読み始めると、当時の記憶が鮮明に甦りました。

人間の記憶は何歳から残るのでしょうか?

当時、私は3歳になったばかりでした。記憶では、朝ご飯を食べた後でした。卵かけご飯でした。そして、父が開けてくれたみかんの缶詰を手に、母と生まれたばかりの妹が横になっている床に歩いて行く途中で暗闇の中に閉じ込められていました。

父のおなかの下にいたらしい…… 次の記憶は後に通うことになる小学校が火炎を上げているのを見ながら父に抱かれて逃げていたことです。

「平和への祈り」を読んでいるうちに、あの爆裂があと数メートル上空だったら、あと数メー トルずれていたら、また、あと1時間遅かったら、いま私は存在していないかもしれないことに気が付きました。

真摯に生きなければ申し訳ないという気持ちに改めて思い至っております。

2008年3月15日
堂々功(皆実12期)

 

故北千枝子先生と音楽界

同窓会の話題は、どうしても思い出話になりますが、皆実高校の創生期に音楽を担当された故北千枝子先生の思い出と、今の音楽の世界について書きたくなりました。

北先生は武蔵野音楽学校のご出身で、結婚されるまでは当時の先端を行くPianistでした。卒業演奏でドビュッシーを弾かれたとき、当時の武蔵野の先生方が「いったいあれはなんだね?誰の曲かね?」と言われたと、北先生が楽しそうに話されたのですから間違いありません。

なにしろ戦時とやらですから無理の無い話です。ご主人は戦争で亡くなられ、先生は音楽教師をして一人息子を育てられたのでした。

皆実創生期の校舎はひどいものでしたが、音楽教室も例外では有りませんでした。現在でも広島で合唱活動をされている皆実有朋会員が多いのは、北先生が悪条件の中で、合唱に音楽を求めて熱心に指導された賜物と思います。その後家庭にPianoが増え、弾く生徒が増加すると、先生の指導で東京芸術大学に入学した生徒も多くなりましたが……。

当時と比べると、音楽の世界は大きく変貌しました。日本人が、Tchaikovsky ConcoursやChopin Coucoursで優勝し、Operaで世界の舞台に立っています。合唱でも技術的な水準が上がり、昔の知識が役に立たなくなりました。なにしろ「さらばベートーヴェン」という本が出て、戦後まで日本で教えられていた「音楽史」が間違っている事が判ったのです。北先生がご存命だったら、今の音楽界についてなんと言われるだろうか、といつも思います。

それにしても合唱コンクールで広島勢はぱっとしませんね! 現在「音楽の街 川崎」に住み、2004年7月開館のミューザ川崎Symphony Hallで毎年年末の第九を歌っている小生は、2つの合唱団に参加し、Italian Operaも楽しんでおります。本当に、音楽に眼を開いて下さった北先生のおかげです。

また、Italian OperaのTenorのHPも主宰しています。北先生がこのHPをご覧になったらなんと仰るでしょうか? サイトのURLは下記の通りです。
http://www012.upp.so-net.ne.jp/teatrotenors/top.html

2007年12月20日
住田誠蔵(皆実5期)

 

バードカービングに魅せられて

同窓会の方から、ホームページに載せたいと云われて駄文を書きました。

この写真は、庭へ来た「尾長」と云いたいのですが、実は私が1年かけて彫った木の鳥です。78歳のときバードカービングに出会って夢中になり、毎日を過ごしております。

自然が好きで若い頃から夫婦で旅行、山歩き(低山)を続けて、年を重ねてからは自然の観察会(植物・昆虫・鳥)に出入りしています。家にも水場を作り鳥を呼び、花を育てている自然派です。今は晴耕雨読と称して晴れると庭の手入れを、雨が降るとカービングをして過ごしています。

バードカービングの元は、英国の鴨猟に使う「デコイ」が始まりで、米国で主流となり、日本に来たのは20年ぐらい前ということです。まだ裾野が狭くて知名度も低いのですが、年々盛んになって1年に1度、我孫子で「全日本バードカービングコンクール」が開催されて今年で11年目となります。

年老いてこんな楽しみができる幸せを有難く思っております。

2007年12月20日
髙橋明子(有朋32期)

 

皆実12期忘年会を開催しました。

12月5日、東京在住の皆実12期生が「安芸路 酔心」に集まり平成19年の忘年会を行ないました。

未だ現役組も含め男性15名、女性5名が参加。 久しぶりに懐かしい顔に会い、高校時代の思い出話、今年のトピックスなど広島弁を交えた話で盛り上がりました。

2007年12月9日
浜崎克海(皆実12期)

 

東京皆実有朋会HP開設おめでとうございます! また、有難うございます!

皆実第5期の住田誠蔵と申します。極めて多忙な毎日を過ごしておりまして、総会・同期会などいつも欠席で申し訳なく思っておりましたが、これからは、このHPで同窓会に参加できるわけで、とてもありがたく思っております。

会報の藤井正秀先輩の名文を拝読しまして驚きました。小生は藤井先輩の高校・大学両方の後輩になりますが、奥田先生については殆ど同じ経験をしております。

小生の場合は2年生の8月に、それまでの解析2の先生が病死され、2学期から新しく謦咳(けいがい)に接したのですが、いや驚くべし、全くできず判らなかった解析2が「非常に良く判り」、成績が1学期の3・3・4という情けない数字から4・5・5と飛躍したのでした。

それだけではなく、以後小生は数字が好きになり、大学入試はもちろん、社会人としても非常に「得」をしました。大学入試につきましては奥田先生のほかに、高3の時の担任の珠山哲弥先生にも、どんなに御礼をしても過ぎる事の無い、真に適切な親身のご指導をいただきました。これについては、また別の機会にお話しする事もあるでしょう。今後ともよろしくお願いいたします。

2007年3月
住田誠蔵(皆実5期)

 

加来先生に一升瓶さげて!

初めて加来先生にお目にかかったのは、皆実高校3年生の9月、呉宮原高校から転入した時です(広島一中時代の友人が沢山いたので、転入という気分はあまりしませんでしたが)。

母親に先生のことを話したところ、母親が県女のとき習ったとのことで、一緒に挨拶に行きました。大学を出られて、先生になられてはじめての生徒たちが、母親たちだったのだということで、話がはずんでいました。女生徒にからかわれると、ポット赤くなられたというような思い出話で、またからかっていました。

授業では、オーヘンリーの短編を訳されるのですが、それが、そのまま文学になっているという名訳で感動しました。実は、私が受験した一橋大学では、英文和訳の試験ではそのレベルのものが求められているということでしたので、非常に参考になりました。

先生は奥田先生、玉沢先生と共に、YMCAで受験塾を開講されていまして、浪人時代1年間お世話になりました。

和文英訳の勉強の仕上げとして、原仙作の英文和訳の参考書を逆に使うことを思いつきまして、和訳されている文章を英文に翻訳してみることをはじめたのですが、なかなか、もとの英文と同じものは書けません。では、どの程度英文として通用するのかと考えても自分には分からない、ということで、加来先生にそれの添削をお願いしてしまったのです。

先生はこのご面倒なことを快くお引き受け下さいまして、私も甘えてしまったのです。あるとき、先生が「これは私がテストされているようなものだね」といわれてニヤッとされた、その優しい笑顔が今でも忘れられません。

おかげさまで受験に成功しまして、せめて感謝の気持ちをということで、一升瓶をさげてご挨拶に、と考えていましたが、大学時代は遊びに忙しく、卒業してからは仕事にと、ついに果たせないでしまいました。

この拙文を、このたび新規に開設された東京皆実有朋会のホームページで全世界に公開することで、謹んで加来先生のご墓前に捧げることとし、一升瓶に代えさせていただきます。

合掌

 
追記: 母親(旧姓:八嶋登美子、生きていれば92歳)と私と、親子二代にわたってお世話になっている皆実有朋会というご縁がありまして、ご恩返しに企画委員会の方に参加させていただいている次第です。

2006年11月
藤井正秀(皆実3期)

このページの先頭へ